生か死か、このままでいいのか、いけないのか
 
「To be, or not to be」
 これは、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』のあまりにも有名なセリフだ。
 そしてこれは人間にとって、あまりにも普遍的な問題だ。西欧文化の影響を受けた国の若者は、一度はこのたぐいの苦悩の経験があるのではないだろうか。この作品が書かれたのは約400年前である。その頃も現代と変わらない問題を抱えた若者がいたということなのだろう。そう考えると、感慨深いものがある。

 このセリフは「生か死か」と訳すべきなのか、「このままでいいのか、いけないのか」とすべきなのか見解が分かれているが、どちらにも一長一短があり、いっそのこと「生か死か、このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」と合体してしまえばいいのではないかとさえ思う。

 意味的には「このままでいいのか、いけないのか」の方が近いのかもしれないが、その意味を理解するためにはまず「生死」の問題を考えておかなければならないので、「生か死か」の方が、どういうたぐいの問題なのかということを推測しやすい。
 また、このセリフを舞台で言うのであれば、歌舞伎の見栄やオペラのアリアと同様に、やはり一般には定番になっている「生か死か」の方が観客は喜ぶのではないだろうか。

 さて、オフィーリアという恋人もあり、これからの幸せな人生を夢みていたハムレットは、ある日、亡くなった父を殺したのが、今は母の夫となっている叔父ではないかという疑いをもつ。
 このまま知らぬふりをしていれば、オフィーリアと結婚してデンマークの王子としてそれなりに幸せな生活を送ることはできる。しかし、知ってしまった以上、自分を偽ることもできない。だが、自分を偽らずに生きるには、この問題の「オトシマエ(決着)」をつけなければならない。それには死の危険がつきまとう。彼は初めは死を恐れて「決断」を迷うのである。彼は自問する。

「生か死か、それが問題だ。どちらが男らしいか。凶暴な運命の矢と弾を耐え忍ぶのと、苦難の荒海に立ち向かい闘って終止符を打つのと。死ぬこと。死は単なる眠りにすぎない。眠れば心の憂いも肉体の苦しみも消えてなくなる。願ってもない幸いというものだ。しかし、眠れば夢を見る。それが嫌だ。この現世のつらさから逃れても、その先で見る夢を思うと心が鈍る。だからこのみじめな人生にも執着が残るのだ。でなければ、誰が世の非難に耐え、権力者の横暴を黙って忍ぶだろうか。誠意なき裁判や不実な恋の痛手も、その気になれば短剣の一突きで死ねる。なのに人生の坂道を汗水たらして上ってゆく。死後に不安があるがゆえだ。旅立った者が1人も戻らぬ未知の世界。心が鈍る。慣れぬ苦労をするよりも現世で耐えようと、思慮が人を臆病にしてしまうのだ」【※1】

 死についての考えは、わたしも同感である。たいていの人もたぶんそうだろう。死ねば楽になるとは思う。理論的に考えてみれば、死ねば無になる。死んだ者はその時点でもう何も感じることはないはずだ。夢など見るはずもないし、死後の世界などあるはずもない。
 しかし、多くの人はそう簡単には割り切ることができないのではないだろうか。そう簡単には割り切れない「何か」が人間にはある。わたしはその「何か」を否定することができない。考えてみれば不思議なことだ。

 で、自分の頭で考える人間は、ここで次の問いを発するのである。「死ねば楽になるじゃん」と言い切れない思考や感情を人間がもつのは何故かと。
 ハムレットは次のような問いを発する。

「人間とは何だ。死ぬまで寝て食うだけの日々を過ごす存在か? それでは獣と全く同じだ。客観的に考え行動する力を、神は人間に与えた。それを使わずにカビさせるためじゃない。違うさ。その力を忘れたか。…(中略)…真の勇気は無造作に剣を取ることではなく、名誉のためには藁くずにでも命をかけて闘うことだ」

 ハムレットは苦悩の末、「死ぬまで寝て食うだけの日々を過ごす存在」ではなく、「名誉(尊厳)のために闘う存在」になることを「決断」する。そのことで、もはや死は彼にとって恐れる対象ではなくなってしまうのである。

 これはどういうことかというと、自分がいずれ死んでしまう存在であるという事実に真っ正面から向き合って、では自分はどう生きるべきかということを理論的に考え、その結論に「納得」したからだと思う。
 また、賢いハムレットは「運」のことも忘れてはいない。最後に彼は次のように言う。

「死は今くるか、後でくるかだ。とにかくいつかくる。覚悟が肝心だ。現世は仮の宿、早死にもあるさ。運に任せる」

 やるべきことを決断した後は「ケセラセラ、なるようになるさ、Let be」なのである。カッコいいのである。

 というわけで、400年前も今も、人がこだわるのは自分の「尊厳」であるということがわかる。戯曲『ハムレット』が今も繰り返し上演されるのは、人々にとって「生か死か、このままでいいのか、いけないのか」という問いが重要なものだからなのではないだろうか。

 誰もが生まれてくることで偶然か必然か環境による苦悩を背負う。ハムレットの場合は血縁の人間関係が問題を抱えていた。彼は自分で望んでそのような環境に生まれてきたわけではない。運命なのである。誰に文句を言っても仕方がないことなのだ。自分で背負うしかないのである。

 そういうふうに考えていくと、人というものは、それぞれ個別の問題を抱え、一生をかけてその問題に「オトシマエ」をつけていく生き物なのではないかとさえ思えてくる。

「このままでいいのか」と思ったときは、たぶん「このままではいけない」ということなのである。ときには立ち止まって「いずれ死ぬ存在」である自分の来し方行く末を考えるのも一興ではないだろうか。


結局ハムレットは暴力でオトシマエをつけることしかできませんでした。あの時代は彼に代わってオトシマエをつけてくれる「法」やシステム(警察、裁判所)が整っていなかったので、仕方がなかったことなのかもしれません。とはいえ、オフィーリアも死なせることになってしまい、いい結果だったとはいえません。やはり悲劇ですよね。

現代は「法」があるので、暴力でオトシマエをつけなくても、わたしたちは「納得」を得られる手段を手にしているわけです。次回は「納得」について語ってみようと思います。

【※1】
マイケル・アルメレイダ監督、イーサン・ホーク主演の映画『ハムレット』より。

この映画は西暦2000年のニューヨークに舞台を移したもので、イーサン・ホークがセックスピストルズのシド・ヴィシャスを上品にした感じでハムレットを演じていて、なかなかよいです。「生か死か」のセリフは、レンタルビデオ店の中でつぶやかれます。

日本語訳も、原作の翻訳本よりこなれていてなかなかよいです。
ただ、この映画の終わり方が、まったくもってよくないです。次のように「運命」をネガティブにとらえた終わり方になってしまっています。

「我々の意思も運命もままなりません。望みはうち捨てられたままに、考えは我々のものでも、結果が独り歩きをするのです」

これは原作にはありません。シェイクスピアをネガティブに解釈するのは勿体ないです。400年前のモンティパイソンのようなものだと思って解釈した方が面白いし、いろいろと発見があると思います。この戯曲(原作)の中でも、ハムレットがオフィーリアの兄と「不幸自慢」をして意地を張っているシーンがあり、けっこう笑えます。イギリスは洗練されたユーモアの持ち主が多い国なのです。

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DVD『ハムレット』

【今週の言葉】
『この世は考える者にとっては喜劇、感じる者にとっては悲劇』
 ホレス・ウォルポール(UK作家)

『この世は、超天国、超地獄』
 マット・ジョンソン(UKミュージシャン、ザ・ザのリードヴォーカル)
 (『Sweet Bird Of Truth』より)

『この世はつらいよ』
 エルヴィス・コステロ(UKミュージシャン)
 (『(What's So Funny 'Bout) Peace,Love & Understanding』、
  『I Wanna Be Loved』より)

自分に気合いを入れたいときは、マット・ジョンソンがお薦め。彼はこれぞ意志をもった闘う男(漢)という歌いっぷり。カッコいいです。
泣き言を言いたいときはエルヴィス・コステロ。彼は泣き言ばかり言っているけれど、ユーモアでひねって突き放しているところがクールでいいです。

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ザ・ザ『インフェクテッド』 

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エルビス・コステロ『The Very Best of Elvis Costello』



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